シリア騒乱から6年

シリア騒乱・シリア内戦の発生から3月15日で6年が経ったそうだ。「~そうだ」としているのは、発生時は東日本大震災の発生直後で報道が影に隠れ、気が付いた時にはもう既に戦乱の様子がテレビで繰り返し映し出されるのみになっていた印象があるから。ジャーナリストの山本さんが亡くなったのもシリアだった。あれから数年が経つが、状況は変わっていないどころか泥沼化し、参入組織・団体・国も増えて解決の糸口が全くつかめない状態にあるという。これまでの国対国の戦争、もしくは政府対市民、派閥対派閥の紛争とは異なり、単純に白黒付けることができない。複雑すぎるストーリーは伝わりにくい、そして長期化によってニュースとしての新鮮味が消えている、これがシリアへの注目が減っている背景だ。

「Compassion Fatigue(哀れみ疲れ)」という現象がある。度重なる悲劇的な写真や映像、文章の見過ぎで、それらに対し感情を抱かなくなることを指す。密航中に海に落ちて海岸に流れ着いた幼児の写真が世界の悲しみを呼び起こしても、がれきに埋もれて真っ白になった血だらけの少年の写真がネットで拡散しても、時間が経てば効力は消えてしまう。それらに心を動かされる人はいる。ただ、どう行動したらよいかわからないのだ。オンライン上での反応は、その心理を反映していると感じる。反応ボタンを押したり、ハッシュタグを付けたり、コメントをしたり写真を共有したり、ネット市民はさまざまな反応を示すが、結局は感情の処理作業に過ぎない。波のように発生しては消える、「何か行動を起こしたぞ」という自己満足の一種でしかなく、バタフライ・エフェクトも怪しいものだ。

そこに出てくるのが支援団体やチャリティーだが、では募金すれば本当に解決するのか?これら団体も非営利ながら収入を得なければ運営できないわけで、「良心を満たす」ことを目的としたサービス業も同然と考える。もちろん何の支援の手立てもないよりかはましだろうが。

話を戻すが、過激な写真ほど、注目を集める。ただ、写真だけが一人歩きして、ストーリーをうまく伝えないこともある。顔を鮮血で染めた傷ついたスカーフ姿の女性。もしこの写真に文章が付かなければ、これが今年のものか2年前のものか、これがシリアなのかトルコなのか、空爆によるものか暴動によるものか、治療を懇願しているのか理不尽を訴えているのか、何も見えなくなってしまう。アルジャジーラの3月15日付記事は、彼女の苦しみを見ろ!文章を読め!と訴える。ジャーナリストの仕事は「伝える」までで、その後の読者の行動については関与しないけれど、行動のその先までをうまくつなげるシステムがない限り、堂々巡りは続く。