「Radi-Aid」が投げかける疑問

「Radi-Aid」blows your mind with warm breeze

 

ノルウェーの国際協力基金SAIHが展開する「ラディ・エイド(Radi-Aid)」キャンペーン。「アフリカの人々が暖房機(ラディエーター)を極寒に苦しむノルウェーの人々に寄付する」という設定で「Africa for Norway」(Youtube)というパロディー映像を作成したのが始まりだ。開発学や途上国支援でありがちな、かわいそうな人(持たざる人)を幸せな人(持ちうる人)が助けるというシチュエーションは同じだが、何をして彼らを分けているのかといった点に疑問を投げかける面白いアプローチだと感じる。

 

彼らは続編として、チャリティーの紹介ビデオにありがちな表現とその裏側を見せる内容のパロディービデオ「Let’s save Africa!」(Youtube)を製作した。これは、支援対象が必ずしも支援者が思い描くような、例えば「自助能力がない」「ピュアで多面性がない」「与えたものは何だろうが必ず受け取る」といった単純な存在ではなく、自らと同じように多様な面を持つ人間であることを、ブラックユーモアを交えて伝えている。先進国のご都合主義で作るイメージを払拭すべきだという主張が込められている。

 

もちろん、パロディーである以上、これも誇張表現であることに変わりはない。完全に客観的に現状を伝えるメディアなどない。それぞれが主観的に、イデオロギーに則ってメッセージ性を込め、効果的に伝わるように見せているだけだ。これが真実ではないし、全くの嘘でもない。あくまで、「発展途上国」とされる国々をめぐるメディア表現と、それにより植え付けられたステレオタイプに警鐘を鳴らす存在である。

 

SAIHは現在、チャリティー団体のプロモーション動画を見比べて善し悪しを検証するコンテスト「Radi-Aid Award」を毎年開催している。当事者には耳の痛いコンテストだろうが、批評の内容は考えさせられるものばかりで質が高い。日本ではここまで踏み込んで議論されることがないため、どうしてもチャリティーのアピール方法が従来の一辺倒なものになり、訴える内容が偽善や表面的に聞こえ、そして一般大衆との乖離につながるとみる。

 

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メディアと女性の対象物化

エマ・ワトソンをめぐる話題なので、日本語メディアでも取り上げられているかもしれないが、ざっくり説明すると彼女がフェミニストとしての活動をする一方で、雑誌にモデルとしてこのような写真が掲載されていることについて、ラジオの女性DJ(多分)が「矛盾している、偽善的」と批判したのが今回の話
「Objectification of women (女性の対象物化)」という概念がある。メディアが映し出す女性像やイメージに偏りや偏見があったり、異性が好むような見世物のように映していたりする事例を指し、これが女性の自尊心を傷つけることや男性の女性軽視につながるという見方をメディア論の中で学んだ。この論点に基づいての批判なのだろうが、私はエマが言う「フェミニズムとは選択の自由を持つことだ」との主張の方も正しいと思う。
なぜ雑誌やテレビに登場するモデルやアナウンサーなどの女性は若くて美しくて細いのか?それは結局消費者がそういった特別性のあるものを見たいからで、ダイバーシティーの尊重を主張する声がある一方、やはり商業的・経済的メリットの方に重点が置かれるのはある意味仕方ない。メディアもお金稼ぎ。
むしろ、それと自分を比べてどうこう、といった思考に流れないための社会環境や教育、工夫が必要だと感じる。英国人の知人(女性)が「日本の銭湯は素晴らしいアイデアだわ。人にはいろんな体つきがあることを見て学べるから自分の体にコンプレックスに抱かなくなる」との視点を共有してくれたことがある。残念ながら日本人は銭湯に行っても結局不必要に他人と比べてダイエットだのなんだのと言っているけれど、影響力の強いメディアが映す、ある意味歪んだ「女性像」と無理なく一線を画すための社会的取り組みやオルタナティブメディアがあれば、エマの今回の写真も単なるアートや自己表現の一環としてとらえることができるのだろうか?

東日本大震災から6年

東日本大震災から6年。ウエストミンスターのマーガレットチャーチでは、被災地の地名を書いた桜の花を小さな木の模型に掛ける企画が行なわれていた。日本人以外も来ていたが、観光客が流れで訪れたような印象が強い。
時は流れ、世界ではどんどん新たな出来事が起こり、震災の記憶も世界的にはもう小さなものになっている。日本が思うほど、世界は日本のことを気にしていないし、たぶん風評被害からの回復もしている。
ただ、被災地がいつまで被災地と認識されるのか、被災者はいつになったらその呼び名から解放されるのか、忘れさせるのではなく意識をどう変えて行くか、メディアの課題はまだ残っている—。17103619_10155028756129593_2394945525388068012_n

シリア騒乱から6年

シリア騒乱・シリア内戦の発生から3月15日で6年が経ったそうだ。「~そうだ」としているのは、発生時は東日本大震災の発生直後で報道が影に隠れ、気が付いた時にはもう既に戦乱の様子がテレビで繰り返し映し出されるのみになっていた印象があるから。ジャーナリストの山本さんが亡くなったのもシリアだった。あれから数年が経つが、状況は変わっていないどころか泥沼化し、参入組織・団体・国も増えて解決の糸口が全くつかめない状態にあるという。これまでの国対国の戦争、もしくは政府対市民、派閥対派閥の紛争とは異なり、単純に白黒付けることができない。複雑すぎるストーリーは伝わりにくい、そして長期化によってニュースとしての新鮮味が消えている、これがシリアへの注目が減っている背景だ。

「Compassion Fatigue(哀れみ疲れ)」という現象がある。度重なる悲劇的な写真や映像、文章の見過ぎで、それらに対し感情を抱かなくなることを指す。密航中に海に落ちて海岸に流れ着いた幼児の写真が世界の悲しみを呼び起こしても、がれきに埋もれて真っ白になった血だらけの少年の写真がネットで拡散しても、時間が経てば効力は消えてしまう。それらに心を動かされる人はいる。ただ、どう行動したらよいかわからないのだ。オンライン上での反応は、その心理を反映していると感じる。反応ボタンを押したり、ハッシュタグを付けたり、コメントをしたり写真を共有したり、ネット市民はさまざまな反応を示すが、結局は感情の処理作業に過ぎない。波のように発生しては消える、「何か行動を起こしたぞ」という自己満足の一種でしかなく、バタフライ・エフェクトも怪しいものだ。

そこに出てくるのが支援団体やチャリティーだが、では募金すれば本当に解決するのか?これら団体も非営利ながら収入を得なければ運営できないわけで、「良心を満たす」ことを目的としたサービス業も同然と考える。もちろん何の支援の手立てもないよりかはましだろうが。

話を戻すが、過激な写真ほど、注目を集める。ただ、写真だけが一人歩きして、ストーリーをうまく伝えないこともある。顔を鮮血で染めた傷ついたスカーフ姿の女性。もしこの写真に文章が付かなければ、これが今年のものか2年前のものか、これがシリアなのかトルコなのか、空爆によるものか暴動によるものか、治療を懇願しているのか理不尽を訴えているのか、何も見えなくなってしまう。アルジャジーラの3月15日付記事は、彼女の苦しみを見ろ!文章を読め!と訴える。ジャーナリストの仕事は「伝える」までで、その後の読者の行動については関与しないけれど、行動のその先までをうまくつなげるシステムがない限り、堂々巡りは続く。

 

 

The protests on 21st Jan.

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Picture above: The quite obvious protest held worldwide on 21st of January, the new U.S. president Trump.

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Picture above: The less obvious and could be unknown protest held some part of the world on 21st of January, the long-lasting Zimbabwean president of Mugabe.

 

Because the U.S. and its president have more influence toward the rest of the world, it is quite understandable that the new and troublesome one gets a lot of attention. However, for some people, the other one have more influence toward their life, right, and everything else.

I thought I was lucky to be able to witness both protests, or more like campaigns, to remind that the new U.S. president is not the only big issue the rest of the world should be paying attention to, though pretty much all the news media are busy catching up with the latest “tweets” and “comments” made quite roughly.

Everyday Sexismエブリデイ・セクシズム-日々の中で埋もれがちなセクハラ問題-

%e5%86%99%e7%9c%9f-2016-10-11-18-24-14It is a quite difficult issue…me saying like this sounds like as if it is totally someone else’s story. But, it is not. Being born as a woman, anyone would have had the experience of being sexually harassed or teased or verbally insulted.

難しい問題だ、の一言で片づけてしまうと、全く持って他人事のように聞こえる。だが、そうじゃない。女性として生まれ育ってきた人は誰しも、セクハラや女であることを理由とするからかいや嫌がらせを受けたことはあるだろう。

Laura Bates, a British woman who is the author of two books “Everyday Sexism” and “Girl’s UP”, has also experienced several annoying moments which drove her to start the “Everyday Sexism Project.” This is an online platform where anyone, male or female, can write about their terrible experience related to the sexism to let the world know that the sexism exists in their society. Even though each story might look so small that it could be easily ignored, when being put in MASS, it will show its existence. That is an archive of what everyone faces in their life, and the baseline to start the discussion, or just shout it out to make you feel better for a bit.

英国人女性のローラ・ベイツ氏は自身の体験をきっかけに、「エブリデイ・セクシズム・プロジェクト」を立ち上げる。これは、日々の中で埋もれがちな性的嫌がらせの体験談をインターネット上で共有するプラットフォームで、この問題を1つ1つのささいな出来事としてではなく、大きな課題として捉える目的がある。もちろん男女関係なく参加でき、男性が受けた被害も議論に向けて共有できる。体験について話すことで気持ちを楽にさせること自体も狙いであり、集まった事例を元に議論を進めるためのアーカイブになる。

She argues that some kind of words and acts in sexist way will not be discussed until the tragedy happens. The society should understand that each issue is connected and we better not separate problems as “these are girl’s/ boy’s issue.” The discussion must be done among as all. “It is people’s standing against prejudice.”

ベイツ氏は、性的嫌がらせの言動は本当の事件に発展するまで議論対象にならない現状があると指摘。それぞれの事象は繋がっており、女性/男性の問題として分けるのではなく、社会全体として考えるべきと主張する。「みんなが偏見に対して立ち上がること」、というのが彼女の論点だ。

She lists the possible causes of sexism such as objectification of women, online porn seen by younger teenagers, no proper lessons from school about gender, sex, LGBT and so forth. In other words, the media’s (here the media does not necessarily mean MASS MEDIA but any kinds of verbal and visual information that surrounds people in the society) rather distorted representation of gender and the lack of opportunity to fix (or balance) it justifies the bullying. The accusation toward victims not to take seriously because it is “joke” and the enforcement toward victims to accept it as the joke leads to one’s giving up in this battle and ends up in the isolation of the victim because no one takes it seriously…

彼女は男性の女性軽視に対し、考えられる原因として、「女性をモノとして見る傾向」「若年層の目に触れやすいオンラインポルノ」「教育機関での性やジェンダー、LGBTなどに関する確立された授業のなさ」などを列挙する。つまり、メディア(ここで言うメディアは単にマスメディアだけではなく、周囲の環境が作り上げる視覚・聴覚的情報なども指す)の偏った表象に加え、それを正す(もしくはバランス感覚を養う)教育機会の欠如が、嫌がらせの正当化につながる。“ジョーク”だから深く考えるなという主張。それくらいは冗談として受け止めろという強制。仕方ないというあきらめ。真剣にとらえてくれる人のいなさが余計に被害者の孤立につながる…。

The hall in LSE used for her lecture, which accommodates around 400 people, was totally packed with audiences, and 85 to 90% were women. What it reflects is that the gender problems are still mostly considered the problem women faces and women should deal with, instead of both men and women.

彼女の講演で使われたLSEの講堂は400人が収容可能だったが、それが完全に埋まるほどの盛況ぶりだった。ただ、聴講者の85~90%が女性。つまり結局のところ、ジェンダー問題は男女で一緒に解決してゆく問題ではなく、女性単体で取り組む問題としての認識が強いのだ。

U.S. President Obama and London Mayor Khan are the iconic political leaders who clarified their stance toward encouraging women to be involved in the society and pursue the same right as men. Their passionate voices are strong and convincing because they both have daughters. Because it is the voice of fathers simply hoping good future for their children, it gets genuine. Yes it could be just a part of their political performance as it has great effect to gain support from audiences, GOOD amount of audiences. If there is a politician or an economic leader with similar popularity and similar belief, with thoughtful policy and passion, the situation will get much better in Japan as well.

オバマ米大統領とカーン・ロンドン市長の2人は女性の権利向上や社会参加を促す象徴的なリーダーとしても知られるが、「女の子を持つ父親」であることが彼らの行動の根底にある。だから主張には力強さと説得力があり、真の声として大衆に響くのだろう。もちろん、現代において女性の権利向上を信条にするのは政治的パフォーマンスとして有用というのもあるだろうが、それでも無下にできない割合の大衆がその方向性を支持していることは確かだ。日本においても、表面的なコメントや浅い政策だけではなく、心から主張できる政治的・経済的リーダーがいれば、けん引力を発揮して動きの加速につながるかもしれない。

http://everydaysexism.com/

Embercombe-大自然とヒップスターたち?

%e5%86%99%e7%9c%9f-2016-11-06-8-51-30大学時代の友人で昔からユニークな行動を取ることで有名な「HIKARI」。彼女が3カ月間の日程でボランティアしている英国南西部エクセターの山奥の環境・サステナビリティ系団体、Embercombeに週末を利用して3泊4日(結果的に)滞在した。

 

と言っても、私はボランティアらしいボランティアをしてはおらず、一番近い言葉を選ぶなら「手伝い込み野外体験」。作業の手伝いは1日(主に芋洗いとゲルの清掃・ベッドメーキング)のみで、食事はきっちり日曜の朝食のポリッジまで平らげたので、ギブよりテイクの方が多かったかも(せめて最後に無農薬栽培のネギを購入すべきだった。3時間ネギ背負って電車移動するのはちょっと遠慮してしまったけど)。

 

仕事終了後に電車に飛び乗り、到着直後に満点の星空に魅了され、暗闇の中で1つ光る白色のゲル(カバーが白くて中の光が漏れていた)に笑い、HIKARIの火おこし技術を眺め、想像以上に暖かいゲルと想定外の羽毛布団に包まれて眠る…。思いのほか居心地がよく、他のボランティアやスタッフも総じて親しみやすかった。

 

この体験をうまく表現するなら何だろう?特に感じたことを挙げるとするならば…。

 

◆英国人らしからぬ英国人

英国人はどことなく日本人に似ていると感じてきた。互いに島国で、大陸側との歴史は複雑、天気・気候の話をよくする、お茶好き、すみません(sorry)をよく言う、本音と建て前の概念も婉曲的表現や皮肉なんかに見受けられる、謙遜を美徳とするけれどプライド高い、などなど。特にロンドンにいると“ザ・イギリス人”と知り合い、友達になるのは難しい。以前に米国人移民が地下鉄での会話のきっかけにと「チューブ・トーク」というバッジを作ったが、ほとんど受け取る人がいないどころか、ネット上では大ヒンシュク。このアイデアを聞いた2割が賛成、8割が大反対という結果となり、反対派のバッジが生まれる始末にまでなった。これほどにまで、見知らぬ人や他者に安易に心を開かないのも両国人が似ていると思う所以だが、Embercombeのスタッフにはこの傾向がほとんど見られなかった。みんな気軽に会話してくれたし、ざっくばらんな質問にも答えてくれた(職業病で質問ばかりしていた)。朝のミーティングの一環だが、今の気分や気持ちを全員の前で話すスタッフたちに一種の感心と驚きを感じた(疲れていると言う人が案外いたけど)。ある意味、英国人らしくない。多分、一般的な英国人らしくないからここにいるのかもしれない。個人的には面白い話がたくさん聞けて満足だったけど。

 

◆日本の当たり前と欧米の違和感

Embercombeが広大な自然の中で築き上げた環境は、サステナビリティや簡素な暮らしを追求するためにオーガニック製品のみをそろえ、無農薬栽培の野菜を中心に食生活し、時々鶏や卵を食べ、廃棄物を減らそうと残り物をアレンジし、台所やシャワーでは節水し、ゲルやキャラバンを住居とし、マッチと薪、暖炉で暖を取り、コンポストトイレも用意する…といったもの。これらは日本人からするとあまり新鮮な概念ではない。オーガニックはともかく、もったいないから残さず食べる、廃棄物を減らす、節約する、簡素さはわびさびに垣間見えるし、汲み取り式トイレも存在したし、我が家にはコンポストも昔あった(生ごみ入れるやつ)。しかし、欧米からするとたぶん大きな変化である。私は昔、米国のカフェテリアや家庭科の授業で米国人がどれだけ食を無駄にするか、軽視するかを見たことがある。校舎の清掃なんてあり得ないし、それら奉仕活動を通じて得られる「日常の小さな物事に対する感謝」なんてものはなかった。「人を育てる環境」というのがこの団体の目指すところの1つらしいが、英国人は当地での経験を通じてどう育つのだろう?どう変化するのだろうか?

 

◆押しつけのなさ

担当の肉体労働はともかく、それ以外は「押しつけ」が全くなかった。気持ちを話す場でも、話さない人はいたし、文化的アクティビティーはあるが参加は自由とのこと。週末はフリーで、車を持つ人は外食やドライブもしたし、HIKARIとは羊のローストもシェアした。フリーランスの仕事のために数週間空けるボランティアもいた。特定のイデオロギーを持っているのにそれを押し付けないのは、組織の目的達成には障害になるだろうが、参加者の自主性を尊重できる。はだしのまま歩くのも、沼で泳ぐのも、夜空をひたすら眺めるのも、自由(ちなみに私が行ったのは夜空をひたすら眺める、のみ)。他人を気にすることも行動を制限することもなく、「自分の時間を持つ」ことがとても容易だった。選択は全て、自らを満たすためのものだった。

 

◆「ヒップスター」たち?

HIKARIはヒップスターのようだと、私は最初に表現した。私の認識する意味合いでは、「世俗的な考えや普通さを越えて、流行や信条などを元に個性的に行動する人」かな。ただ、元となるヒッピーの概念はとても複雑で、個人それぞれに同じ表現は当てはまらない。バズワード(Buzzword)のようなもので、みんなが簡単に使う一方、すべての人が共通の概念を理解・共有しているわけではない。彼にとってのヒッピーは彼女にとってのヒッピーではないし、これは「フェミニスト」という単語についても言える気がする。特定の人が特定の含蓄や意味合いを込めてカテゴリー化するためのディスコース(Discourse、論説)に近い。HIKARIはEmbercombeで生活してヒッピーになったのだろうか?私は最終的に違うと感じたが、誰か別の人はそうだと答えるかもしれない。

スタッフたちは親しみやすかった一方、常に同じ人、同じ環境と接していることによるフラストレーション的なものも一部で垣間見えた。これについては、大都市の中心でも、ある程度の文明から距離を置く山の中でも同じことなのだろう。長く居すぎると「心地よい楽園」が「終わりのない迷路」みたいになるのだろうか。

 

もちろん数日の滞在では深い部分まで観察できないし、私は月曜からまた会社員生活を続けている。満点の星空を毎日眺められる環境(実家)を本拠に、収入を確保しながら生活基盤を確立できたらなとの思いは強まったけど。